Born on a Baseball Planet
細山田武史選手(早稲田大、ベイスターズ、ソフトバンクそしてトヨタ自動車)に会った話 Takeshi Hosoyamada, No. 6

今季の東京六大学野球は、首位決戦の慶明戦に2連勝した明治大がそのまま次週の法明戦でも勝利を収め、第40回目となる優勝を決めました。

 

母校の慶應義塾大は、投手陣が踏ん張り切れなかったこともあり2季振りの優勝を逃す結果に。しかし下級生の活躍などポジティブな要素もたくさんあるので、来シーズンの雪辱に期待しています。

 

 

 

さて、大学野球を卒業してからもしつこく野球界に留まっていると、そんな東京六大学のOB選手に再会することがあります。

 

以前紹介した、立教大から紆余曲折を経てヤクルトスワローズに入団した菊沢竜佑投手(友人・菊沢竜佑への手紙。就職、独立リーグ、軟式野球を経てヤクルトスワローズで彼が成し遂げたこと Old Rookie)もその1人ですが、今日紹介するのは別の選手。早稲田大から当時の横浜ベイスターズ(DeNAベイスターズ)に入団、ソフトバンクホークスでもプレーした細山田武史選手です。

 

 

 

ぼくが慶應義塾大に入学した2007年、早稲田大3年生の細山田さんは正捕手として既にチームの中心的な存在でした。この代には翌年早大主将となる上本博紀選手(広陵高→早大→阪神タイガース)、甲子園で父子鷹と言われ話題となり後に細山田選手とベイスターズでもチームメイトとなる松本啓二朗選手(千葉経大付属高→早大→横浜ベイスターズ→DeNAベイスターズ)、社会人野球を経て同じくベイスターズに入団する須田幸太投手(土浦湖北高→早大→JFE東日本→横浜ベイスターズ→DeNAベイスターズ)がおり、既に黄金期を迎える準備は万端といった様相でした。

 

そこへこの年入学したのが、1988年生まれの選手たち。早稲田実業高で2006年夏の甲子園制覇を果たした斎藤佑樹投手(早稲田実業高→早大→日本ハムファイターズ)、6球団競合の末西武ライオンズへ入団する大石達也投手(福大大濠高→早大→西武ライオンズ)。さらに2004年にセンバツ甲子園を制覇した福井優也投手(済美高→早大→広島カープ→楽天イーグルス)も1987年生まれながら1年間の浪人を経て入学、ここに盤石な戦力が整ったのでした。

 

 

 

この豪華メンバーの間の学年にさらに松下建太投手(明徳義塾高→早大→西武ライオンズ)などをも加えた早稲田大は、細山田さんが卒業する2008年までの4シーズンで3度優勝(2007春、2007秋、2008秋)、そして彼はその4シーズン全てでベストナインを獲得しました。入学と同時にベンチ入りした2005年春のシーズンから数えると、8シーズンのうち3連覇を含む実に5度の優勝(前述シーズン+2005春、2006秋)を経験した訳ですから、黄金期の中心選手という表現は全く言い過ぎではないでしょう。

 

ちなみに彼が卒業した2008年のシーズンから現在(2019年春のシーズン)までの21シーズンで、早稲田大の優勝回数は4回。そう考えると、在学8シーズンで5度の優勝という数字のすごさが伝わるのではないでしょうか。

 

 

 

早稲田大から横浜ベイスターズに入った細山田さんは、1年目こそ正捕手候補として期待され、3年目にはチーム最多の54試合の1軍戦でスタメンマスクを被りましたが、結果は思うように奮わず。5年目の2013年に右腕の血行障害を発症すると、思うようにボールが投げられなくなり手術も経験。その年のオフ、ベイスターズから戦力外通告を受けました。

 

そうして臨んだ12球団合同トライアウト。人気番組となった「プロ野球戦力外通告・クビを宣告された男達」から密着取材を受け、トライアウトのために間近に迫っていた結婚式を延期した様子などが伝えられていました。トライアウトではキャッチャーとして支配的な能力を発揮。トライアウトから数日が経って、ソフトバンクホークスから育成選手として契約したいというオファーが届いたのでした。

 

 

 

一方ぼくは、2009年に卒業した細山田さんから遅れること2年、2011年に慶応義塾大を卒業しました(東京六大学・慶應義塾大学野球部で選手を引退して学生コーチになった話 1st Retirement from Baseball)。さらに2014年に慶応義塾大大学院を卒業し、こちらもトライアウトを受験して独立リーグ、ベースボール・ファースト・リーグ(現在の関西独立リーグ)のゼロロクブルズに入団しました。

 

当時のベースボール・ファースト・リーグでは、月1くらいの頻度で交流戦が組まれていました。残念ながら他のBCリーグや四国アイランドリーグとは違いチーム単体ではなくリーグ選抜としての試合でしたが、それでも相手はプロ野球NPBの2軍や3軍のチーム。当時3軍を保有していたのはまだソフトバンクホークスだけで、そのためNPB球団の中でも積極的に独立リーグとの交流戦を行ってくれていたように思います。

 

 

 

その日はゼロロクブルズの本拠地である花園セントラルパーク野球場での、BFL選抜vs.ソフトバンクホークス3軍戦でした。ぼくは選抜チームに選ばれることはできませんでしたが、せっかく本拠地球場で交流戦があるのだからと志願してブルペンキャッチャーとしてベンチに入っていました。

 

試合が始まる時間になると、ソフトバンクホークスの先発メンバーに見覚えのある名前が。実はこのときまで細山田さんがソフトバンクの3軍でプレーしていることを知らなかったのですが、ポジションは外野での出場だったものの、神宮で毎週のように目にした当時の六大学最高のキャッチャーの名前を忘れるはずはありませんでした。

 

 

 

試合が終わると、ためらう気持ちもありましたがゼロロクブルズの先輩からの後押しもあり、六大学の後輩として細山田さんのところへ挨拶に向かうことにしました。ベンチから引き上げようとする細山田さんに声を掛け、慶応義塾大出身で六大学の後輩であること、いつも神宮で細山田さんのプレーを見ていたこと、今はトライアウトを受けてこのリーグでプレーしていることなどを話すと、細山田さんはぼくが挨拶に来たことをとても喜んでくれました。

 

握手の手を差し出してくれて、お互い頑張ろうなと言ってくれました。ニッと笑った顔が印象的でした。

 

 

 

翌年、ぼくはゼロロクブルズを退団してドイツ、ブンデスリーガへと活躍の場所を求めました。3月はじめには渡独してチーム練習に参加、後半からは雪もチラつく極寒の中オープン戦もはじまります。4月を迎えてシーズン開幕を1週間後に控えたぼくは、Wi-fi環境でしか繋がらない携帯の画面に細山田さんのニュースを見つけました。

 

ソフトバンクホークスで支配下契約を勝ち取り、二桁の背番号を付けてニッと笑うあの表情。花園セントラルパークでぼくに向けてくれたのと同じ笑顔でした。

 

 

 

実は花園セントラルパークでの交戦戦の試合中、細山田さんの表情はひどく険しいものに見えました。血行障害を発症した右腕の調子が万全でないのは傍目からもよくわかり、投げ方もどこかぎこちないイップスを思わせるようなものでした(それでもバックホームでランナーを刺していましたが)。しかし、そのニュースの中で笑う細山田さんの表情は、ぼくがよく知る神宮のスターのそれでした。

 

その年、ソフトバンクで背番号00を背負った細山田さんは12試合の1軍戦に出場。スタメンマスクを被った6月5日のジャイアンツ戦では、内海哲也投手から勝ち越しの2点タイムリーツーベースを放ってソフトバンクの勝利に貢献しました。

 

 

 

オフに再びソフトバンクから戦力外となった細山田さんは、もう合同トライアウトを受験することはしませんでした。早稲田大や六大学OBもたくさんプレーするトヨタ自動車野球部に入部すると、トヨタ自動車初の都市対抗制覇を成し遂げたり、社会人日本代表に選ばれたりと攻守に大車輪の活躍。

 

きっと今日も、あのニッと笑った顔で野球をプレーしているんだと思います。

 

 

Equipments: フジフィルム クラッセ, イーストマンコダック ポートラ400

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